生きてるだけでありがたみ

推しくんがずっと好きな仕事をしていられますように

コントの皮を被った救いのない悲劇 〜THE BAMBI SHOW 2nd STAGE

www.bambishow.jp

 

そんなわけで、ザ・バンビショー 2を見てきました。

いやめちゃくちゃ面白かった!『大人たちが真剣に不山戯(ふざけ)る!』というテーマにめっちゃワクワクしてたんですけど、予想以上に笑って、でもどっかシュールで、泣きもあって、考えさせられる素敵な舞台でした!!!

……というのが、初日の感想。

 

まだ見に行くんだけど、あまりにしんど過ぎて吐き出さずにおられないので感想を書きます。めちゃくちゃネタバレしてるので、これから見ようと思ってる人でネタバレ嫌な人は読まないでね。

 

 

■いきなりアレから始まる狂気■

初見でまず誰もが度肝を抜かれるであろう超絶出オチ。

この舞台は、なんと「カーテンコール」から始まります。

最初に全く意味のわからないシュールな芝居から始まり、「???」と思ったところでそれが終わったらしく暗転 。と思ったら軽快な音楽とともに、見慣れた例の光景、出演者が袖から順番に出てきてお客さんに一例をし、ちょっとしたトークが繰り広げられる。

なんだこりゃ????????

と客席にクエスチョンマークが飛んでいるところで、演出家が出てきて音楽を止め、ダメ出しを始める。そこで初めてアッこれ劇中劇か!こういうネタなんだな!と気付く。

いきなりのカーテンコールという困惑と、理不尽すぎる演出家のダメ出しに爆笑する面白コントは綺麗にオチがついて終わったかに思いきや……実はこのコントが、この舞台全編を通してメインで語られる沢登圭輔という男の人生のプロローグであり、「カーテンコール」そのものが実はこの作品の大きなテーマであるということを、すべて見終わってから気付くという恐ろしい構成なのだ。

カーテンコールで始まり、カーテンコールで終わる。そしてそれが本物のカーテンコールへとつながる、というのがこのTHE BAMBI SHOW 2nd STAGEという舞台。

この舞台、一見バラバラに見えるが確かにはっきりと主人公が存在した。それが、すべてのカーテンコールでキーマンだった「沢登圭輔」であり、その役を与えられた彼は確かに、2.5慣れしている人間には珍しい「座長でない主演(いわゆる接待俳優枠)」であった。

 

 

■パズルのピース■

バンビショーは8本のほぼ独立したコント(ひとつだけはっきり続いている)からなるショートショートオムニバスである。けど、見ているとパズルのピースがハマるように、あれっこの人あのコントのこの人の関係者か!とか、この話とこの話は繋がっているのか!とか、たくさんの「気付き」があり、気付く度にアハ体験のような感覚を覚えて気持ち良い。実は8本のコントすべてが、多かれ少なかれどこかで繋がっていたり、フラグを立てていたりする。

だがこの気付きがクセモノ。初見では「すご〜い!全部繋がってるんだ…!」と思う程度に過ぎない。でも、販売されている舞台台本を読み、二度三度と見ることによって気付きは増え、そして大筋で笑いの影に隠された真実に気付いてしまった瞬間に、「大人たちが真剣に不山戯る」コントオムニバス舞台ではなくなってしまう。

大筋からは(多少の関係はあるものの)ほぼ独立した笑いに特化したエピソードと思われるものにすら、アハ体験どころか「意味を知ったら怖い話」レベルの気付きが隠されている。

 

 

■泣きの演技に思う■

推しの、泣きの演技が好きだ。だいたいの舞台でガチ泣きするし、なにより流す涙が美しい。なんなら本気で泣くので鼻水も結構出てるんだけど、それすらも尊い。いつもめちゃくちゃもらい泣きしてしまう。

だが今回は少し違った。初日、私はその泣きの演技にあまりに圧倒されすぎて、逆に泣けなかった。ただ単純に、ニワカの私が見てきた範囲で一番の大号泣だったというのもある。だがそれ以上に「この流れでそんなに泣けるの、この役者すげえな!?」という感心が先に立ってしまったというのが大きい。

彼がメインで演じた沢登は確かに幸福から不幸のどん底に叩き落とされた、悲しい人生だった。沢登という男自身が心の底から悲しいのは当然だろうと思う。けど、一歩引いて俯瞰で見ればこれは「オムニバスのコント舞台」である。

メタ的な話になるが、普段の舞台は、2.5にしろそれ以外にしろ、2〜3時間のストーリーを演じた上で泣きの場面が訪れる。だから板の上でそれぞれの一人のキャラクターを生きている役者は、そこまでに感情を持って行きやすいと思う。

例外として先日のKMKではいきなり十束が殺されるシーンから始まるため、最初からトップギアで泣かないといけなかったのがキツかったと推しくんが言っていたけれど、あれも過去3度同じキャラクターを演じているという点において「その瞬間の美咲の気持ち」に自分を持っていくこと自体は、彼という役者にはそこまで困難ではないと思う(それでもいきなり泣けるのはすごいの一言だけど)。

でも、今回の舞台は違う。少なくとも表面上は、8本のオムニバスコント舞台だ。大筋では沢登の物語がメインとして流れているものの、本人はやたらテンションの高い幼児だったり、大阪府某所出身のマイルドヤンキー感を遺憾なく発揮した阪神ファンのニーチャンだったりの役も間に挟む。そしてラストで悲劇のネタとしては極めてありがちパターンである(言い方は悪いが)うすっぺらい内容の沢登の身の上話で、これまでに見たことないほどの大号泣をする。その事実に、初見はもらい泣きする前にただビックリしてしまった。

けど、あとから噛み砕いてみて良くわかった。彼はこの作品で都合三役を演じているけれど、それは入れ替わり立ち替わりの「三役」ではなく、「沢登圭輔」というこの舞台の主人公を最初から最後まで演じている中で、あとふたつの役をアンサンブル的にこなしているという状態なのだと。まあどっちの役もアンサンブルというにはあまりにクセが強いけども(笑)あくまで大筋とは無関係の役、という意味で。

彼はあのふざけた舞台で、だが確かに沢登圭輔という男の人生を生きていた。だから、彼の中にはただ見ている私たちが想像しうる、よくある不幸に見舞われてしまったかわいそうな男の末路と作品で語られるその人生のごく一部だけではない、その何百倍何千倍もの沢登という男の人生があるのだろう。何より元役者という設定、半分は本名であること(もちろんどちらもわざとだろうけれど)も、自分と沢登を重ね合せる大きな要素であっただろうと思う。役者になっていなければ堅実な人生を歩んでいた、また一時期売れなくて伸び悩み辞めようと考えたこともあったと公言している彼は、ある意味自分自身の「if」としてあの役を捉えていたのかなと感じた。

あの場面で激しい慟哭とともに流される涙と鼻水は、彼自身の「もしかしたらあったかも知れなかった」未来に流されたものだったのかも知れない。

 

 

沢登圭輔という鬼■

ようやく本題。

一見8本のコントオムニバスと思われるこの舞台は、沢登圭輔という男の「気付き」の物語であり、そして沢登という新たな鬼のはじまりの物語だった。

 

いきなりラストシーンに話が飛ぶが、それまでは極めて人間的で、弱く儚い、かわいそうな青年であった沢登が次代の鬼だと宣告され、中央壇上に立って金棒を担ぎ「さ、僕を泣かせて」と言うあのシーンは何度見てもゾクリとして鳥肌が立つ。あの佇まいひとつでとてつもない冷酷さ残忍さを感じさせるし、あのたった一言で、「この鬼はそう簡単には泣かない」という潜在的な恐怖を植え付けられる。

「鬼」だから本来は怖くて当たり前なのだが、先代の鬼は、本性を表すと恐ろしいという設定はあったものの本人は極めて腰が低く涙もろい人情家であった。

初見ではそこまで深く考えなかったのだが、台本を熟読し、二度三度と見ると、二人の鬼の決定的な対比に気付いてしまう。

アベ鬼と沢登鬼の違いはおそらく、「鬼の職に就く前に自らの悲しみを吐き出している(=プロフィールを完成させている)」かどうか、ではないのだろうか。

 

ここからは完全に私の個人的な解釈とか想像の話なんだけど、まず決定的なセリフとして沢登がカーテンコールの挨拶として最後に鬼に言った「お陰で全て思い出せました」という言葉。あれは暗に「沢登圭輔のプロフィールがあの時点で完成している」ことを示していると思う。

では先代のアベ鬼は?あの人のプロフィールが完成していないであろうことは、ケルベロスが「フランダースの犬」の件を知らなかったことから察せられる。ケルちゃんは見届け人だから、アベのプロフィールが鬼になる前に完成しているなら、フランダースの犬の件も間違いなく知っているはずだ。でも、彼女はアベ鬼がそれに極端に弱い理由を最後まで知らなかった。そして、生きることをやめた沢登への腹の底からの怒り、つまり自殺者=自分自身への怒りで彼は浄化され、その後の近松とのやりとりで初めてアベのプロフィールは完成したのではないか。

彼が鬼としては涙もろく、そしてフランダースの犬の話に極端に弱かったのは、それが「鬼になる前に消化しきれていなかった悲しみ」だからなのではないかと私は解釈した。

さて、では新たな鬼、沢登はどうか。彼は、鬼になる直前に慟哭をもってプロフィールを完成させている。次の鬼はあなたです、と言われて呆然とする沢登に、周囲の仲間の亡者たちは「こいつすぐ泣くぜ!」と、喜ぶ。あれは台本にないセリフだけど、盛大なフラグではないかと思う。それまでのどこか弱々しい沢登、そしてその前の号泣で、亡者たちは「今度の鬼はすぐ泣くぞ」と沸いた。そのセリフはその直後に舞台が終わることから考えるとわざわざ入れる必要のないものだ。台本にない、一見アドリブのようなガヤの中で「毎回必ず入るセリフ」であることには大きな意味があると思う。

沢登自身はあの号泣をもって自らの悲しみを全て吐き出してしまっている。だから、アベの様に「本人しか知らない独自の泣きのスイッチ」を、もはや持っていない。

つまり、沢登圭輔は「泣かない鬼」なのだ。

 

二人の鬼の対比はもうひとつある。地獄の皆で芝居をしているやりとりの時に、アベ鬼に迫力出すために金棒を持ってみては?と近松が振り、「あれ重いからあんまり持ちたくないんですよね…」というやりとりがある。このセリフ、一見は「鬼のくせに金棒を重たがる」という面白小ネタに感じる。だがこの一言がラストに向けて重要なフラグになっている。

あなたが次の鬼です、と告げられ、ケルベロスに金棒を捧げられた沢登は、金棒を手に取り……そして、あの小さな身体で軽々と担ぎ上げ、冷酷に「さ、僕を泣かせて」と言うのだ。

明らかにアベより小柄で弱々しい(中の人が実はめっちゃパワータイプとかはここでは忘れてください)彼にとって、金棒は「重くて嫌なもの」ではなかった。このシーンのためにこそ、沢登役は「彼」でなければならなかったのだと思った。

おそらく金棒の「重さ」は、物理的重量ではない。鬼となり、他人の悲しみを受け止め続けるということの重責のようなもの。彼にはそれがない。自らの悲しみをもう吐き出してしまったから。

 

悲しみを受け入れ、自ら死を選んだという罪を受け入れ、鬼であることを受け入れた沢登圭輔は、おそらくアベのように「自殺者への怒り」をもってしても浄化されることはないだろう。彼の浄化はおそらくもっと別のところにある。それが何かは、物語からはまだ読み取れないが、きっと簡単なものではないはず。

そして彼はもはや、地獄から抜け出すことを望む亡者たちのために涙を流すこともそう簡単には出来ない。

沢登という鬼の未来には、その「さ、僕を泣かせて」という全編を通してもっとも力強い彼のセリフに反して、一切の救いが感じられない。

 

沢登圭輔の人生は、言うなればよくある悲劇だった。不幸な話ではあるが、不幸に見舞われる一瞬前までは彼なりに前向きで幸せに生きていたし、そして確かに泣ける話ではあるが、不幸そのものは悲劇としてはとてつもなく「あるあるネタ」だ。

彼の本当の悲劇は、むしろきっと鬼になったあの瞬間から始まる。

 

THE BAMBI SHOW 2nd STAGEは大人たちが真剣に不山戯るコントオムニバスであり、笑って泣いて意外と考えさせられる舞台作品であり。

そして、沢登圭輔という「鬼」の、救いのない始まりの物語だった。

 

 

 

THE BAMBI SHOW 2nd STAGE、来週23日までやってます。

月火ソワレはまだ残席あり、当日券も別途出るそうなので気が向いたらぜひ!

円盤にならない舞台なので、見ておいて損はないです。

とりあえずさほど深く考えなくても、板尾さんが出てくるだけで面白いので!www