生きてるだけでありがたみ

推しくんがずっと好きな仕事をしていられますように

この推しを推そうと僕が言ったから

6月25日は推しくん記念日。

と、また若い人には全く伝わらないであろうパロですみません、こんばんは私です。

 

 

ちょうど2年前の6月25日、私は諸事情ありましてあまり好いてはいませんでしたが兼ねてから存じ上げておりました推しくんを「推そう」と決意しました。

まだ好きなわけでもない、好きになるかどうかもわからない俳優を推そうと思ったのは当たり前ですが生まれてはじめてです。

好きでもないのに「推す」?って思うでしょう。何言ってんだコイツ、って思ったと思います。でも私にとって、「推す」というのは「応援する」ということです。だから必ずしもそこに好意が伴う必要はないんです。

 

その時の私は、推しくんにとてもとても「感謝」をしていました。

 

この先自分の気持ちがどうなるかはわからない。顔面は最初から、なんなら推す前から好きだったけど、でも内面や演技もひっくるめてのこの人自身を好きになるかどうか、感謝のきっかけになったその舞台以外の彼も見続けたいと思う日がくるかどうかはまだわからない。

それでも、私の推しキャラちゃんを引き受けてくれた彼の気持ちを少しでも知りたくて、そしてありがとうという気持ちを何かの形に残したくて、少なくとも件の舞台が終わるまではこの人を「推そう」と思いました。

それが6月25日。

 

まあ結果、2年後このザマですけど!!!

 

この手元の紙束をもぎられ尽くすまでは死ねないなって何かあるたびに思う生活になるとは、2年前の私は予想もしてなかっただろうな……。

まだたった2年なんだ?とも思うし、もう2年も経ったのか、とも思います。この2年間、笑って泣いて怒って病んで色々あったけど、総じてしあわせな2年間でした。おたくやめるみたいな文章だな。やめねえよ。

 

2年と言いますが、推しくんを「推し」だ!と自信持って言い切れるくらいになってからはまだ1年〜1年半くらいかな〜と自分で思います。

よくはてブロでも話題になる「推し」の定義。ここからの話はあくまで私の中での個人的な基準なので、異論は認めるけど反論は認めない、というスタンスでお話します。

冒頭私は2年前の今日、推しくんを「推そう」と決めたと書きました。持論ですが、あくまで自分自身の中で「推し」と認識する、「推そう」と思う、という点においては応援度合いは関係ないと思います。自分が推しだと思えばその瞬間から推し、というのが私の考え方です。そういう意味ではあの瞬間から私の中で推しくんは私の推しでした。

でも、例えばこういったブログだとかツイッターだとかで「この人が推しです!」と声高にいうのであれば、ある程度他人に胸を張れる程度の応援実績は必要だと個人的には思うんですよ。

もちろんその基準は人それぞれだし、個々人出来ることに差はありますから、ガッツであるべきとまでは思いません。実際私だって未だにゆるオタですし。

でも自信を持って対外的に「この人が私の『推し』です」と言うのであれば、最低限茶の間として出来る応援(SNSのチェック、FCや有料コンテンツへの課金、現状正規ルートで買える円盤等の購入、その他地方在宅でチェック出来る仕事の視聴etc)を全部やり尽くした上で、たまにでも生の現場に足を運ぶ、少なくとも詭弁ではなく本当の意味で「行けたら行きたい」という心算ではいる…最低限そこまでやって、初めて自分の中だけでなく他人に対しても「この人が私の推し」と紹介する資格を持てると私は思っています。

わりと最近は推しという言葉を「好きな俳優」とか、それならまだしも「気になってる俳優」程度の意味でカジュアルに使う人が増えてきて、推しという言葉が軽くなったな〜とは思うんですけどね。別にそれはそれでその人の自由だと思います。ただ私がその程度でとても人様に対して推しだとは言えないなってだけで。てか、そもそもその程度で推しとか言ってたら私推し30人くらいいるもん。ものすごいDDですよ!w

 

話が逸れましたが、あくまで私の中ではそういう基準なので、推しくんを推そうと自分で思ったのは2年前ですがはっきりとこの人が推しです!と言えるくらいになったのは、まあゆるく見積もっても16年の秋から、厳しく見れば1年前くらいから、という感じです。

16年の秋は私が推しくんを推そうと思うきっかけとなった舞台の本番があった時期です。じゃあ1年前に何があったかっていいますと、一個前のエントリに書いた例の二代目の舞台と、そしてそれに続いての某ミュ卒業でした。

それまでの私は本当にゆるオタで、どうゆるいかというと東京でしか公演のない舞台はよほど見たいと思うやつ以外は行かない、大阪公演があるなら必ず行くけどせいぜい1〜2公演という縛りでいましたし、当時はそれで普通に満足していました。その程度の基準だったのでその時期生で見なかった舞台もありますし、それも特に今後悔とかしてないです。

ただ1年前の例のアレの二代目舞台、あれ絡みで本当に色々あって。あとあの時期の推しくんは本当にスケジュールがタイトでした。いや今もだけど…。まあいい。

そんな感じで、当時の推しくんにはなんかハラハラさせられました。でもあの頃の彼は一切弱音を吐かなかったんですよね。反抗心っていうわけでもなければ同情なんて烏滸がましい気持ちでもないんですけど、なんかあの頃急激に推しくんへの愛情が深まった気がします。そしてその後の国ミュの卒業発表による自分自身の動揺と、一週間叩き込み稽古。そして、そんな短期間で仕上げたにもかかわらず、私がこだわり強すぎて「いくら推しくんでもこれだけは無理かも」と当時避け続けてた国ミュの推しキャラの、神がかった本物っぷり。なんだこの人と尊敬を超えた畏怖のようなものを感じると同時に、天命のように「私はこの人をもっともっと応援したい、もっとたくさんこの人の仕事を見たい」ってあの頃思うようになったんです。

そしてその国ミュ直後の、初めてのそこそこ時間のある接触。そこで貰った言葉で、ああやっぱり私はこの人をとても好きだし、この先もきっと推して行くんだ、と確信しました。

 

以降の舞台は、1公演のみのゲストなんかでどうしてもスケジュールが開けられなくて無理だったもの以外は全部観に行ってます。そしてだいたい多ステしています。いやそれは正直いい加減控えたいんですけどね…!w

ガッツの人に比べたら全然だし、そもそも現場に行ってるから必ずしもえらいとは思いませんけど、少なくとも自分の中で「こんなんで推しって言っていいのかな…><」って申し訳なく思うことがない程度には現場に行けてるという自負はあります。もちろん他人に誇るために行くわけではなく、自分が行きたくて行ってるんですけど。

 

 

2年前の今日、この人を推そうと決めた自分の判断は間違ってなかったなと今では思います。

もちろん決めた時点で燃えようと何しようと推したことを後悔するつもりはなかったし、たとえそこまで好きにならなかったとしても彼を応援していた時期は決して無駄ではない、楽しい日々だったと思うんですけど。

 

推しくんを自信持って「推し」だと言えるようになったのは約1年前と書きましたが、そう言えばこのブログを始めたのも約1年前です。

この人は私の推しです、推しと呼べる人が出来ました、楽しいです!って話を壁打ちしたい。そう思ったのが1年ほど前なんだなって思うと、当時そこまで推しという概念にこだわりを持って意識していたわけではないですが、やっぱりそういうことだなって改めて自覚しました。

1周年にはもうちょっと。来月です。普段使ってないメアドではてブ登録してるもので、半年記念のメールもスルーしてしまったので1周年も忘れそう。

 

ところでこれは本当に偶然なんですけど、なんと、これが100個目のエントリらしいです。推しくんを推そうと決めた記念日のエントリが100記事目って、なんだか二重に感慨深い。

 

 

来年の今日もまた、似たようなブログ書いてられるといいな。